風の声を聞いて

「風が泣いてる……」

 街中に吹いた風を受けた男性はそうつぶやいた。

風の声を聞いて

「あ、お帰りなさい、先生」

 先生と呼ばれた男が家の書斎に入ると接待用のソファにTシャツを着て、クーラーもかかっておりいかにも涼しそうな女性が座っていた。お手伝いさんが書斎に通したのだろう。女性は男が入ってくると読んでいた本をバッグにしまい立ち上がった。

「気晴らしの散歩ですか?」

「風が泣いてたよ」男は質問を無視して言った。

「近頃の風は泣いてばかりだ。かわいそうに……」

 女性はふふふと少し微笑した。この男??女性が先生と呼ぶ人はいつもこういうことを言うのだ。「風が泣いてた」とか「風は喜んでいた」とか。主に前者は都会で言うことが多く、田舎に行くと後者をよく言っていた。だが、最近は田舎へ行っても前者を言うことが多かった。

「またですか? 最近は泣いてばかりですね」

「地球温暖化のせいだろうな……。ところで、茜君。原稿を頼まれた覚えはないけど?」

 先生は作家である。茜と呼ばれる女性は風見先生がデビューした時から原稿を取りに来ている。風見は二〇〇七年となった今でもパソコンで原稿を書かずすべて手書きで書いている。

「いえ、今日は原稿ではなく新しい小説の依頼なのですが」

「いつも通り“風”の小説か風の声の小説だがいいのかい?」

 風見のデビュー作“風の声を聞けば”は大ヒットした。数々の賞を受賞し一躍その名を日本全国にとどろかせた。それから数年、数々の本を世に送り出してきたがそれらすべてテーマが“風”というものだった。風はすべてを語る??それが上述した言葉と共に口癖だった。

「先生はそれがテーマですもの。別のものを書いてくださいと頼むつもりはありません」

「わかった。だが、今は特に書きたいものがないのでな。書きたくなったときに連絡するからまた来てください」

「最近は風の声が聞こえないのですか?」

「聞こえるよ。でも、最近、聞こえるのは悲しみの声ばかりだ。以前書いた作品と似たものができてしまう」

 風見は風の声を聞くことができるという不思議な力を持っている。風はさまざまな国を飛び回っている。今の世界の情勢、環境問題を風は乗せてきてその乗せてきたもの??これを彼は風の声という??を聞くことが彼はできるのだ。

 その不思議な能力を使い、風の声に耳を傾けるよう“風”をテーマとした小説を書いているのだ。だが、風の声を聞くことができるのは風見だけ。最初、出版社は売れないだろうと思っていた。だが、風の声だけについて書いているわけではなかった。風の声を文章にもしているのだ。


 ある日、風見は電車に揺られながら東京を後にしていた。目的地は??彼が好きな場所。優しい風が彼を出迎えてくれる場所。

 その場所はある山である。これといって知られていない山奥で山の上からは町など一つも見えず、見えるのは美しい木々や山ばかり。耳を澄ませば鳥のさえずりが聞こえる。完全な自然が楽しめ、風たちも喜んでいる??と風見がいつも言っている場所だ。

 その山から一番近い駅は新幹線からローカル線に乗り継いでたどり着く無人駅である。駅がある町は小さく人口も少ない。テレビの取材が来ることなどもないひっそりした場所だ。それだから山の自然が残されているのだ。

 山に行くにはバスに乗り山の下まで向かう。そこから木のアーチをくぐり抜けると、町から一番離れている木々に囲まれている家が建っている。木々の間から抜ける太陽の光によって家は照らし出されていた。風見はこの山に来ると必ずこの家に立ち寄ることにしている。登山道具はそこで借りることができるし、何より大切な友達がいる。

 家のチャイムを風見は押した。その時、風が吹いた。

 二回目のチャイムを鳴らすと中から声が聞こえてきた。するとドアは開き中から小柄な白髪交じりの髪の毛をした老人男性が姿を現した。

「おお、灰君か」

「こんにちは、杉下さん。お元気そうで何よりです」

「そちらさんもな。ささ、中に入りたまえ」

 風見は初めてこの山を登山した時、迷ってしまった。雨もしとしとと降り始め、あたりは時間敵意も暗くなっていた。手ごろな洞穴があったのでそこで雨がやむのを待っていた。そんな心も不安でおなかも減ってきた時に風見の前に一人の老人が現れた。それこそ杉下老人である。それから、杉下老人にお世話になりこの山を登る際のポイント等を教えてもらったのだ。それ以来、風見はこの山を登る前に杉下老人を訪ねることにしている。

 家の中は外見の洋風な小屋のようなイメージとは異なり、綺麗なフローリングが廊下にはひいてあり部屋はほとんどが畳である。だが、風見がいつも通される場所はフローリングのリビングで畳部屋に入ったことはほとんどなかった。

「今日も登山かね?」杉下老人がお茶を持ってきてソファに座るとそう訊いてきた。

「ええ、そのつもりだったのですが??」風見は少し口ごもった。そのためらいの間にどうしたのか杉下老人は訊ねた。

「先ほど吹いた風によるとこれから登山するには危険すぎるほどの大荒れになるようでしてね。せっかく来たのですが登れなそうです」

「君が言う風の声とやらか。確かに灰君のそれには確実性があるからおそらく来るんじゃろうな。はるばる東京から来たのに登れないとは残念じゃのう。いつ東京には帰るのかね?」

「明後日に帰る予定です」

 それを聞くと杉下老人は少し表情をほころばせ、うれしそうな口調で言った。

「そうか! だったら今日はここに泊まるといい。嵐も明日にはやむじゃろう。明日、登山すればいいではないか」

「せっかくのお誘いですが町のほうで旅館の予約を入れていますので」

「旅館にはまだ予約だけじゃろ? 持ち物を見る限りそうじゃろう。だったら金も安くつくしな」

「本当にいいんですか?」

「いいとも。君なら大歓迎じゃよ。一人ですごすのも楽しいことではない。二人いれば楽しいじゃろうよ」


 もう日は暮れた。木々はざわざわとゆれ、闇の中を葉っぱが舞っている。空は雲に支配され灯りという灯りはない。唯一ある灯りこそが、杉下老人の家の灯りだけだった。

 杉下老人の家では夕食を食べていた。突然の来訪ということもあり、たいした食事ではなかったが長年一人でここに暮らしている杉下老人の料理の腕前はなかなかのものだった。杉下老人は結婚をしていたが風見と出会う前に他界していた。それ以来、この山の下に住み込んでいるのだ。

『今晩は大荒れになるでしょう。外出しないように??』

 夕食後、テレビをつけると天気予報がやっていた。やはり今晩は大荒れになるらしい。

「灰君の予想は的中だな」天気予報を見た杉下老人は言った。

「ええ。風はいろんなことを知っていますからそれを聞いてやればわかりますよ」

 刻一刻と夜は更けてゆく。風見と杉下老人はその間にたくさんの話しをした。主に杉下老人が話し風見は聞き手に回っていた。杉下老人がそれに気づくと風見に何か話しを持ちかけてみたが、いつの間にか杉下老人の話しが主導権を握っていた。杉下老人はたくさん話したいことがあるのだ。この山の最近の状況。山を訪れている人々のことを。一人暮らしでは話し相手がいないのだ。

「身寄りがいないのじゃよ」と杉下老人は言った。「妻もこの世にはいやしません。わしによりも先に逝ってしまいましたからなぁ。子供もできませんでしたし」

 時計の針が十一時を指した。杉下老人は基本的に十時には床に就くのだが話すのに夢中でそれに気がつかなかった。風見は杉下老人が床に就く時間を知っていたので、杉下老人に時間を指摘すると急に眠気が襲ってきたようだった。

「よく覚えていたもんじゃなぁ」杉下老人は眠たそうに小さな声で言った。「わしの就寝時間なんて知っている価値もなかろうに。若いものはすぐ忘れると思っていたがそうではないみたいだな」

「忘れる人もたくさんいますよ」

 杉下老人は立ち上がり、床に就く準備を始めた。それに伴い風見も就寝の準備を始めた。とはいえ、歯磨きやお風呂に入るのはすでに済ませていたから布団を敷くだけでよかった。そして、もう寝れるという状態になった時に杉下老人はあっと何かを思い出し、あせった様子で風見と話した。

「まずいぞ灰君! 今朝君が来る前に一人の青年がここを訪れたんだ。その青年は??山に登ったのじゃ!」

 風見はそれを聞くと、真っ先に窓を開けた。ついに雨も降り出してきていた。まだ土砂降りではないが、相当強い雨だ。そして、風も強い。窓を開けた瞬間に強風が家の中に入ってきた。風見はすぐに窓を閉めて言った。

「本当にまずいですね。大変な大雨が来るそうですよ。土砂崩れが起こるかもしれません」

「……行かねば」

 杉下老人は急いでできかける支度を始めた。風見はそれを止めた。そのときの杉下老人の目はきっかりと開いていて、眠そうではなくなっていた。

「これから大雨ですよ? こんな時に山に登ったら遭難するだけです。救助隊を呼びましょう」

「救助隊なんてものは天候が悪いと動かないんだ。今の状況で行けるのはこの山に詳しいわしだけじゃ」

 杉下老人の声には強い響きがこもっていた。だが、風見も負けてはいなかった。普段は温厚な風見だがこのときばかりはそうではなかった。

「山に詳しいあなたならわかるでしょう。今の状況がどれだけ危険なのかを」

「そんなことはわかっている。だが、助けなければならないんだ。人一人の命が危機にさらされているんだ。それに??」

 杉下老人はそれ以上言わなかった。風見は何を言うか待っていたが、何も言わないとわかるといった。

「わかりました。あなたが行くならわたしも行きましょう」

「灰君に行かせるわけにはいかん。灰君はまだ若い。こんな危険な山に行って死んでもしたら大変じゃ!」

「あなただってそこに行くんですよ。危険なんて同じですよ!」

 杉下老人は思った。風見をここに泊めるのではなかった??と。だが、いまさら悔やんでもしょうがない。二人は急いで出かける準備をして、救助隊に連絡を入れてから家を出た。

 嵐はますますひどくなっていた。横殴りの雨は二人を襲い一歩一歩の速度を緩めさせ、顔の温度が低下してゆく。木々のざわめきはひどく耳に響く。それと同時に風の音が聞こえ、二人の会話はとても大きな声を出さない限り成立しないほどだった。

 二人は並んで歩いた。いざという時後ろよりも横の方が役に立つしはぐれる率も少ない。視界は悪く光もないため闇が完全に支配している。二人は防水加工が施されている懐中電灯であたりを照らし光を作り出し、闇の中を歩いていた。

 ビュンビュンうなる風の音と共に風が二人を襲う。無数に吹いている風の声を風見は聞き取ろうとしていた。たくさんの人が周りで同時に話しているのを聞き取るのは並大抵のことではできない。だが、風見はそれをすることができた。なぜなら、無数に吹く風の声は皆同じだったから。多少は違っても内容は同じだった。

「安全なルートを通って行こう」

 杉下老人はできる限り危険がない安全なルートを通って進んで行っていた。だが、どこに行っているのかを風見は知らなかった。知らなかったというよりも訊くことすら忘れていた。あまりの風の声が訴えている言葉の多さに。

 やっとそのことについて思い立つと、風見は訊いた。

「わしたちが初めてあった場所だよ」杉下老人は言った。「あの場所は迷ったりする人が多く見つけ救助を待つポイントなのだ」

 風見は自分が迷った時のことを思い出した。確かに迷った時に真っ先に見つけた手ごろな洞穴であった。何回かその後にも山へ来たときにその場所を探してみたが、あっさりと見つかってしまいつまらない思いをしたことが風見にはあった。それほど簡単に見つけられる場所なのだ。だが、今二人が置かれている状況下でその場所を探すのはさすがに難しいであろう。それでも、杉下老人はその場所がどこにあるかがわかっているようだった。

「あ、あなたは……」

 目的地に到着した。二人はその穴に誰かがいるのを知り胸をなでおろした。そして穴に入るとそこには一人の青年がいた。登山をする格好をしており、先ほどまであたりをうろついていたのかぽたぽたと雫が落ちている。

「大丈夫かね?」杉下老人が訊いた。青年は大丈夫といった。

「助けに来てくれたんですか。本当にありがとうございます」

「ああ。ほら、早く下山しよう」

「本当に早くしたほうがいいですよ」と、風見は言った。「これから一番強い嵐が来るようです」

「なんじゃと? ふむ、それは急いだほうがいいな。さあ、いこう」

 杉下老人は青年に促した。だが、青年は立ち上がろうとはしなかった。どうしたのか杉下老人が訊くと、青年は言った。

「行くにも行けないんです。足をくじいてしまっていて歩けないんです」

 杉下老人は青年の足を見てみた。ひどくはれている。これでは本当に歩けまい。そして、気づいたことがあった。それは青年の体温が下がってきていることだ。このままここにいれば凍えてしまい意識がなくなるだろう。だが、ここから歩けない彼をつれて出て行けば、一番の嵐に直面するだろう。

「ここから少し行ったところに大きな木があったはずです。そこにたどり着く頃に一番の嵐は来るでしょうから、その木でわたしたちの身を守りましょう。嵐がやめば、すぐ戻れるでしょうしね」

「あの木か。わかったその考えで行こう。どうせ、ここにいたってどうしようもないんだ」

 ここで青年は疑問を訊いてきた。

「でも、その木に行く前に嵐が来てしまったらどうするんですか?」

 風見はその質問に答えるのを少しためらった。だが、決意していった。

「嵐がやんだ後に救助隊によって病院に運ばれるでしょうね」

 風はさらに強くなっていた。ビュンビュンという音からゴォォという音に変わっていた。三人はできる限り急ぎ足で、目的の木のところへと向かっていた。目的の木は大木で、樹齢何千年という木である。大人同士十人ほどが輪になってやっと一周できる幹の太さである。

 青年は風見が支えながら歩き、杉下老人が青年の荷物を持って先頭をきっていた。青年の身長は風見より少し小さいぐらいであり、杉下老人よりかは大木かかった。青年を支えるのは風見がいいだろうと風見自身が提案したため、このような形になった。それに、杉下老人はこの暗闇の中でも多少の明かりだけで場所がわかるから道案内もかねているのだ。

 目的の木まで後数メートルという時に普通の人では感じ取れない先ほどまでの風とは違った風を受けた風見はあせりを感じ、青年をおんぶする形を取った。そして杉下老人に目的の木まで先に行っているように言った。

「明かりをこちらに向けていただければ場所はわかります。だから、先に行っておいてください」

 杉下老人は風見のその言葉の裏になにがあるかを読み取った。先に行くことはなく、風見たちの前を今までどおり歩いていた。

「杉下さん!」

「さあ、急ごう。病院送りは誰もしてはいけない」

 また普通とは異なった風から風の声を風見は受け取った。その風の声から風見は本当に走り始めた。もう、五十メートルほどしかない。

「急いで杉下さん! もう嵐はそこまで来ています!」

 杉下老人もその弱った足の筋肉を必死で使った。風見も小説ばかり書いていて最近はなまっていた足の筋肉を使った。杉下老人より風見のほうが先に出て目的の木に近づいた。

「こちらです。逆じゃ木に隠れることはできません」

 木の陰に入ることができた。それから少し遅れてものすごい音の風がそこを吹きぬけ始めた。大樹の枝が落ちてきた。近くにある小さな木は反っていた。しばらくそこにいると、木の反りが直った。それを見受けた風見たちはその影から出て山の下にある老人の家へと向かった。


 家に戻ると救助隊が来ていた。救助隊に風見は青年を。杉下老人は青年の荷物を渡して、町の病院へと青年は搬送された。風見たちも病院に連れて行かれそうだったが二人は大丈夫だと言い張り、家の中へと戻り体を温めた。

「どうして」

 体を温めているときは沈黙が続いていた。その沈黙を風見は破り訊いた。

「あの青年を助けに行こうとしたんですか? 危険だとわかっていたのに。それにあの時、あなたが言った『それに』の後を伺いましょうか」

 杉下老人は何も言わなかった。それからまだ冷えている唇で言った。

「わしの妻はこの山で死んだんだ。ちょうど今のような状況下でな。だから??」

 その後を風見は言うのをとめた。わかりきっていたことだ。「だから、妻のような目に彼をあわせてはいけない。絶対に助けなければいけないと思った」のようなことを言おうとしたのだろう。風見はそれ以上何も問わなかったし、杉下老人が話すのもやめさせた。


 東京に戻った風見は茜を家の書斎に呼び出した。

「なんでしょうか?」

 茜が書斎に通されると最初にそう言った。

「今度書く小説のタイトルが決まったから知らせようと思ってね。??まだ書いてはいないんだが」

「いえ、まだ書くいてなくてもいいですよ。それでタイトルはなんていうんですか?」

 風見は一枚の原稿用紙を取りだし、それを茜に渡した。それにはこう書かれていた。

『自由を奪われた風』

あとがき

 花鳥風月シリーズ第一弾の“風”をテーマとした作品です。前作の「岬の風」での反省を生かし、本当に風が関係しているという作品に仕上げることができました。

 実に「岬の風」を書いてから四ヶ月ほどしてから書いた久々の短編でした。意外と短編にしては長くなったような気がしますが。しかも、大衆文学として書いたのですが(ロー・)ファンタジーみたいになってしまいました。大衆文学っていう表記はおかしいかもしれません(汗

 さて、あとがきといってもたいして書くことはないのですが、書きたいことは一つあります。『語られていない風の声の意味』です。語っていない風の声の部分が数箇所あるのですが、その中の一個である『無数の風の声』の部分の声の内容を考えていただきたいなぁと。一応、わかるようにはなっています。

もくじ