海風

「あそこには人が住んでるんですよ」

 吉永は浜辺の端にある磯を指差した。その指しているものが何かわかると、普段から冷静な風見灰も驚かずにはいられなかった。

「あんな場所に人が?」と風見は聞き返した。

 風見灰とその相手??吉永??は浜辺で会話をしていた。陽射しがだんだんと強くなる一方、まだシーズン前のこの時期。浜辺には平和的な波の音と風の音しか聞こえない。そんな平和な浜辺で、驚きの話を吉永はしていた。

 彼が指差していたものは、磯の奥にある小さな洞窟だろう、と風見は判断した。それは間違っていなかったようで、吉永と風見の会話にすれ違いはなかった。

「それが住んでるんだよ」と吉永は言う。「一体全体なんであんなところに住んでるのか、理解に苦しめられるよ。高い波があがれば中はぬれるし、干潮時にしか道が出現しない場所で、満潮時にこっち側に来るには泳がなきゃいけないんだからね。何かと不便な場所なのに」

「どうしてそんなところに住んでるんでしょうか?」

「私は実際に住んでいる人を見たことはないからわからないけど、何でもみすぼらしい服装をしてるとか。おそらく、あそこを寝床にしているホームレスなんじゃないかな。波が低ければ、屋根がある場所だからね」

 不思議なホームレスだ、と風見は思った。しかし、もしかしたらわからないことでないかもしれない…………。

 風見灰は小説家である。そういう関係上か、はたまた彼の趣味なのか定かではないが、その話に彼は興味を持った??いや、興味を持ったのは話ではない。彼には吉永が提起する問題を解決する考えがあった。その彼の考えというのに、彼は多大なる興味を持ったのだった。もし、その考えが違うならば、違うで不思議なことだが、彼はそのことに興味はなかった。

 その好奇心を満たすべく、風見はその洞窟に干潮時に向かった。干潮時の道というのは狭く、完全に水が引くわけではなかった。そのため、風見が洞窟に付いたとき、彼の靴はだいぶビチャビチャだった。

 洞窟というのはまさに洞窟という感じの洞窟だった。海を見渡すことのできる大きな入り口から始まり、ごつごつとした黒い岩に囲まれた幾分高目の天井と奥行き。波はその岩にぶつかり、どんどんと岩を侵食すると共に、洞窟内に水しぶきを飛ばす。

「なんのようだ?」

 風見が洞窟の観察をする前に、彼の耳に鋭い質問が飛んだ。彼は、洞窟の中にいる乞食のような身なりをしている男と目が合った。見た目はやせ細って、ひげは無精ひげ程度に伸び、髪がやたらと汚いように見えるその男だが、その眼光は鋭かった。

「ここはいいところですね」風見の第一声はこれだった。「海風をめいいっぱい受けることができる」

 その言葉に乞食風の男は面食らったらしい。彼の鋭い質問に対して、このような答えが返ってくればいささか気が抜けるのもわかる。しかし、彼は疑問に思った。この男の言葉には変な響きがこもっている、と。

「そうだとも」と乞食風の男は立ち直った。「こんないい場所はない。ここ以外の場所はみな廃れてるよ。風は通らない、暑いなんていう東京は一番最低なところだね」

「わかります、その気持ち」と風見はうれしそうに言った。「わたしは事情によって東京に住んでいますが、都心に近い多摩のほうに住んでます。それでも、やはり風はないていますね」

 この言葉を聞いて、乞食風の男は相手が自分の思った人間であることを知った!

「お前さん、風の声が聞こえるのか?」と乞食風の男は尋ねた。

「はい」風見は何のためらいもなく答えた。「あなたと同じですよ、わたしは」

 風見には特別な能力があった。それが、風の声を聞くということである。風を全身で受け止め、風が何を言っているかを読み取れるという能力である。風見はその能力があるからこそ、小説家になったのであり、また風をテーマにした作品しか書かないのだった。

 そして、その能力をこの乞食風の男も持っているらしい。先ほどからの会話から??また、吉永の話から??風見はなんとなく想像していたが、その想像はまさに正解だったわけである。

「まさか、おれ以外の人間がそんなことができるとは思えなかったよ」と乞食風の男は言った。

「わたしはそうは思いません」と風見。「人はみな受け取れるはずなのです。しかし、人は風の声に耳を傾ける機会が減らされ、その能力が衰えているだけですよ」

「そう思うかね? まあいいさ。なんだっていいんだ、この能力を使えるのと使えないので、たいした差はないのだからな」

 風見はそれに返事はしなかった。

 乞食風の男は言った。

「お前さんの名前はなんていうんだ? おれは可部っていうだが」

「わたしは風見灰といいます」

 案の定、風見のことを可部は知らなかった。しかし、彼はうれしそうだった。風の声を聞くことができる、仲間と出会うことができたのだから。彼らの話は見事なまでに一致し、話に花を咲かせたのである。その話は、満潮時のときまで少なくとも時間の感覚をなく話し続け、風見が陸地に帰るために、次の干潮時になるまで、その話の花が枯れることはなかった。

 風見はまた来ることを約束して、次の干潮時のときに元のホテルに帰っていった。


 その曇り空の日、風見のもとへリュックを背負った、風見と同じ能力を持つ可部がやってきた。まだ早い時間であったので、風見はその訪問に驚いたものの、軽蔑の目で可部を見ることはなかった。

「いったい、こんな早くにどうしたんですか?」と風見は尋ねた。

「どうも、天候が悪くなりそうなんでね。早めにこっちに来たんだ」と可部は答えた。「海が荒れたりしたら、干潮時の道もなくなっちまって脱出できなくなるから、風の情報を得たらこっちに来るんだよ。おれとて、長く生きていたいからな」

 風見は波が荒れるという情報は得てはいなかったものの、確かにそのふしはあった。そのふしはまさに正夢ならぬ正風になり、その日の午後には大雨と共に海は大荒れとなった。

 翌日は台風の後の静けさの如く快晴だった。可部はその日一日中泊めてくれたお礼で、風見を彼のマイホームに招待をした。風見はその招待を受け、早速そのマイホームへと向かった。

 マイホームはかなりビチャビチャだった。あの荒らしで、大分波がこの洞窟の中に入り込んだのが、はっきりとわかった。とはいえ、このマイホームには大きな家具の類はないし、小物は可部が持ってきていたので、ぬれていること以外は何の被害もなかった。

「こんなことは日常茶飯事さ」と可部はいった。「こんなことでへこたれるようじゃ、ここには住めないよ」


 風見の部屋の電話が鳴り出した。その電話はフロントからで、外線が来ているとの旨を告げられた。風見は外線をつなげてくれるよう頼むと、しばらくしてから聞きなれた女性の声が聞こえた。彼の小説の原稿担当者の茜からだった。

「あ、風見先生ですか?」と茜は再度確認した。

「そうです。どうかしましたか?」

「いえ、そちらの様子はどうかと思いまして。催促のように聞こえたら申し訳ありません」

「いやいいんだよ。ちょうど新しい作品の案も、浮かんできているから、そろそろそっちに戻ることにしよう。そうだな…………では、明日中にでも東京に帰るから、東京に帰ったら連絡するよ」

 このような成り行きで、風見は汚らしい東京に帰ることになった。彼は早速その日のうちに荷物をまとめてしまい、ホテルでお世話になった新しい友人たちに挨拶を述べた。出発当日の日には、可部に会いに行った。かなり気の合った相手だったし、それなりに挨拶をしなければなるまい。風見はちょうど干潮の一番最初を狙い、洞窟に入り込んだ。

「おう、お前さんか」風見がやってくると可部はいった。「今日はやけに早いね」

「実は今日東京に戻ることになったんです」と風見は事情を説明した。「それなので、その挨拶にと思いまして」

「そうか」可部は残念そうにいった。「まあ、がんばってください。お前さんの小説が出たらぜひ読ましてもらうよ。同じ能力を持つものとしてね。どんなものを書くかも気になるしな」

「ぜひお願いします。また、時間があればこちらに来てもいいでしょうか?」

「もちろんいいとも! そのときを楽しみにしているよ」

 風見は海を見た。この日は曇りだった。このすばらしき風が吹く洞窟で、彼は風の情報を読み取っていた。

「嵐は来ないようですね」と風見は読み取り結果をいった。

「そのようだな。まあ、安心していられるというわけだ。こんな天気でも大丈夫なときは大丈夫だからな。むやみに移動するのも大変だし」

「それじゃ、わたしはこれで。可部さん、お元気で」

 こうして、風見は東京へと帰省したのである。

 東京に帰省すると、すぐさま茜に連絡を入れて、彼の家の書斎に通した。

「どうでしたか、今回のご旅行は?」と茜は尋ねてきた。

「なかなかよかったよ」と風見は答えた。「わたしと同じ仲間とも会えたしね。充実したものだった」

「仲間ですか?」

「そうだよ。風の声を聞くことができる人間がいたんだよ。前に君にいっただろう? 風の声を聞くことができる人は、わたし以外にもいるんだとね」

「そうでしたね。さて、では打ち合わせのほうなのですが……」

 そのとき、書斎のドアがノックされた。風見は入ってよいというと、彼の家の家政婦が入ってきて、電話が来た旨を告げた。

 風見は茜に断りを入れて、電話に出た。電話の相手は、彼の旅行で新しくできた友人である吉永だった。

「どうしたんですか?」と風見は尋ねた。

「残念だったよ、あの人」と吉永はいった。「東京の天気はどうだ?」

「東京も曇りですが……?」

「こっちは大荒れ??嵐だよ。急にやってきてね。あの洞窟に嵐の大津波が流れ込んだらしく、中にいたあの人は波にさらわれちまった」

 風見は絶句した。可部さんが波に飲み込まれた! それに嵐が起こっているだって! そんなはずはない。わたしや可部さんはしっかりと風の情報を読み取ったのだから……それでは絶対にこんなことにはならないといっていたはずなのに……。

 それから、数日後、可部はとある海岸に打ち上げられていた。すでにその息はなく、この世を去っていた。

 風見灰は新しい小説を書くことを断り、ただただ絶句しているだけだった。

あとがき

 私としては、この風見灰という小説家がお気に入りで、かってにシリーズ化していたのですが、この作品でやっとシリーズといえるものになってきます。

 この作品では、学校でふとなんだかよくわからないうちにひらめいたのをまとめた作品です。もともと、異常気象シリーズとしてかこうとしていたのですが、ここは琢志さんではなく風見さんだろうということで、風見さんを主人公となりました。

 風見さんが出る話の場合、風がメインテーマなのですが、この作品もその例に漏れません。もっとも、海をテーマにして書いているのですが、はてそれがいかされているかはなんともいえません。しかし、十分とはいえずとも海を利用していることから、テーマとしては両方のテーマになっているように思います。

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